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あれはやはり今頃か、いやいや黄昏が長かったから、もう少し春も深まっていた、暖かい頃のことだったような気も。当時はまだ、今程 気性が落ち着く直前の、暴れ盛りのやんちゃ者だった葉柱だったものが、少しは束ねの仕事を手伝えということか、その頃の総帥だった兄に言われて、京・山城近郊のあちこちを巡ってみていた頃だったと思う。兄からのお墨付きを授かって、ところどころでは人の姿に変化へんげもしての、ちょっとした物見遊山の旅ということで。気楽な独り身のままにぶらぶらと、好きなようにあちこち出向いたその末に。此処のような少し山間に分け入った辺りの荒野の一角に、ぽつんと一本、随分と見事な枝振りと大きさの、年経た桜の樹があったのを見つけたのが、今にも宵が訪れそうだった、春の夕暮れ時のこと。
“ほほぉ…。”
色合いも濃いめの緋白の花々をそれは分厚くまといつけ、黄昏間近だった何にもない枯れ野の、まるで主のような趣きさえある風格に満ちた佇まい。夕映えに淡く金色に照らされた姿がこれまた勇壮で、足元の草原に荒野とはいえ何となくの道筋が続いていたから、街道筋ではないながらも近在の者がわざわざ運んでの見物にと来たりするのだろうかなんて。今はどこにもない人の気配を、風情の中にも嗅ぎ取りかけてた葉柱だったが、
「…お。」
樹が間近になって、やっとのこと視野に収まったものがある。太い根元に凭れるようにして、小さな存在が草間にぺたりと座り込んでおり。幼い和子のようではあったとはいえ、葉柱ほどの妖力を誇る格の者がその気配に気がつけなかったとは意外なこと。それだけ憔悴し切っており、あまりの気配の薄さだったから、ということか。昨日や今日の野ざらしではなそうなほど、形だけまとった衣服も、顔や姿も荒れに荒れていて。まだまだ寒いこの時期に、よほどに水をくぐらせたらしき、古びて薄い単ひとえを一枚だけ、しかも丈の短いのを無理から縄で巻きつけているだけという姿であり。骨に皮と言ってもいいほど腕も脚も痩せ細り、アカギレを含むあちこち傷だらけの肌も乾いて、汚れの皮さえ剥がれたような案配だったし。結うほどの豊かなコシもない髪は、脂も出切っての茶けてぱさぱさで。草むらを揺らす風に枯れ草みたいに堅そうになびいては、されど…その子供当人よりもよほど生き生きと動いている様なのが、何とも痛々しく見えていた。
「…おい童っぱ。どうしたよ。」
その傍までゆっくりと、歩みを運んでみたけれど。どこかぼんやりとした表情をまるきり動かさないのは、葉柱の姿が見えてはいないせいだろうか。街道から離れた時に、荒野にあるのを見とがめられても詰まらないからと、姿はそのまま、されど人としての気配は解いたから。能力者でもなければ自分の姿は見えはしない。それを思い出して…どうしたものかと。わざわざご対面することもないかしらと迷ったそこへ、
「…あっち、いけよ。」
風に紛れそうなほどの、小さな小さな声がした。お…っと視線を差し向け直せば、意識は何とかあるらしく。重たげな瞼の隙間に光だか潤みだかが、春の夕刻の残照の中、微かに覗いているのが見えた。間違いなくその和子が向けて来た声であり、
「ほほぉ、この俺が見えるのか。」
それで葉柱の側の腹も決まった。もちょっと相手をしてみようと、声が聞こえやすいよう、もう少し傍らまで寄ってみる。やはり生気は殆どなくて。なのに…どういうものだろうか、こっちへと向いてる“意識”は結構強い。警戒かそれとも、こうまでなっても絶えぬほどに、我の強い和子だということか。どうやら後者であるらしいと分かったのが、
「…そうだ。飯は要らんか?」
先には宿もないようだからと晩へと残した握り飯。背に負うていた包みを降ろし、そこから八手の葉にくるんだ飯を取り出したところが、
「…ほどこしは、いんね…。」
施しは要らないと、これまた一丁前な言いようをする。これは見上げたものだのと、苦笑をこぼしつつ、
「そんな偉そうなもんじゃあねえさ。」
ずっと差し出し続けたが。動けないのか、いやいや意地から動かないのだろう、石のようになってぴくりともしない。これでは何だか、葉柱こそが苛めているようでもあったから、
「いいから食いな。俺は人へ施しなんてするほど、立派な奴じゃあないのだし。」
「…じゃあ何奴だよ。」
そうは見えないがもしかして。これでも警戒しているのかな? まったくもって気丈なことよと、ますますのことに頼もしく思えて。
「同情とか驕おごっての施しとかいうんじゃあない。俺らは、人が減ると困る身なもんでな。」
ついのこととて本音をちらり。すると…
「………。」
こっちの言った意味を図りかねているのか、考え込むような、探るような、意志のこもった沈黙の気配が届く。かさかさに乾いた口許が、何か言いたげに震えたから。先んじてのこちらから、もう少しを語って聞かせる葉柱で。曰く、
「俺はお前ら人間の言う“邪妖”って魔物の一種なんだよ。」
どう受け取られようと構わない。怯えさせることになったら可哀想だが、真実なんだからしようがない。馬鹿正直なのは生まれつき。こんな小さい子に、しかも今にも命の燈が消えそうな子に、いかにもな嘘を並べても仕方がなかろう。そうと思ったから、正直なところを語ってやった。
「魔物にも色んなのがおってな。」
人を捕まえて頭から食うとか、生気をすするとか、そんな風に直接の悪さをするようなのは、途轍もなく馬力や妖力の大きい者たちだけで。大半の邪妖ってのは大概、ちょっとした悪戯をするくらい。人々の生気が満ちていて、わいわいと生活していてくれたならそれだけで、おこぼれを拾って生きてける。俺はそんな小さい蟲の仲間の邪妖だかんな。
「……………。」
だから、人が栄えててくれないと、俺たちも困る。そうと付け足した、その時だった。
「……………食う。」
小さな手が伸びて来た。よかったと笑って、その手よりもずっと大きな握り飯を手渡せば、そのまま、うつむいたお顔へと引き寄せられていったので、
「茶屋の女将さんが気のいい人でな。」
こっから先には宿なんてないよと教えてくれて。それでも行くならそうだお弁当を作ってあげようって。それで飯やらおかずに佃煮やらって、色々持たせてくれたのだ。荷物をあちこちまさぐりながらの声が、聞こえているやらいないやら。大きかった握り飯を息をもつかずに半分も、まずは一気に食べてしまった小さな坊や。
「白湯もあるぞ? 喉がつかえんか?」
そうと世話の声をかけてやると、手が止まってしまったから、
「ああほら、一遍に食うたから…。」
やはり閊えたかとお顔を覗けば…うつむいてた目許が涙に溺れている。そうして、
「おれ、誰かと喋ったの、凄げぇ久し、振り、だから…。」
声の終しまいが、涙に呑まれて。口許が苦いものでも舐めたかのように、ぎゅううって思い切り引き歪み。それは苦しそうに息を引きつけ始める、小さな小さな彼だったから。
「ほらほら。泣くと喉が固まっちまって、飯が飲み込めなくなるぞ?」
慌てながらも自分こそがと“落ち着け、落ち着け”と、胸の裡にて言い聞かせつつ。丸くなった細い背中をよしよしと、大ぶりの手のひらで何度も何度も撫でてやると。何がいけなかったか、ますますのこと嗚咽が高まり、
“あわわっっ!”
慌てる葉柱の心持ちなんか知らないまんま。小さな拳で不器用そうに目許を拭いつつ、わぁぁんと声を上げて泣き続ける、小さな小さな坊やだったのだった。
何とか涙が落ち着いてから、2つあった握り飯を、坊やがゆっくり、時間をかけて食べてる間に。こちらは慣れた手際で焚き火を仕立てて、荷物の中から羽織るものを引っ張り出し。ほとんど肌も露だった華奢な身をそれでくるんで、膝へと乗っけるように抱きかかえてやれば。最初のうちは、何だか落ち着けないのだろうか、そわそわしていたものの、お腹も落ち着き、しかも温かくなってのこと。すぐにも うとうとと舟をこぎ始めた模様。それでも…これも警戒心からか、なかなか寝ようとはしないでおり、
「おっちゃんは人じゃあないのか?」
さっき説いて聞かせたことを思い出してか、そんなことを聞いてくる。泣いた後だからか、それとも風邪でも引きかけていたか。鼻にかかった、ちょっぴり甘い声なのが愛らしく、
「ああ。だってのに、よくも見えたよな。」
咒がどうのこうのと言っても分からないだろうからと、見えるようにと意識を張ってはいなかったのだぞと、簡単な言いようをすると。ふ〜んという声を出してから、
「オレが死にかけてたからかもな。」
なんて言い方を返して来るあたり、しっかり意が通じている上で、それなりの考察をしたらしき答えを返す子で。あれほど我が強いだけあって、飛び抜けて利発でもあるらしいのは、葉柱にもすぐに悟れた。
「でも、今も見えてるぞ?」
今はさっきと違って気を張ってるのか? いや、そんなこともないぞと言ってやり、
「お前自身が不思議な子なのかもしれないな。」
「不思議な子?」
「ああ。」
色々な道具だの工夫だのを使うようになったせいで、自然の気配には鈍感になりつつある人間の中にもな、稀に俺らの気配が昔と変わらずありありと拾えるって敏感な奴がいる。神職ってのは判るかの? そういう職種に就いてる者とか祈祷師なんかに多いのだがな。
「ああ。新しく家を建てる時とかに、お祓いをする神主のことか?」
そうそう。やっぱり頭のいい子だと、打てば響く反射なのが、何だか我がことのように嬉しくなって、
「そういう者らには、我らを敏感に感じ取れる力があっての。もしかしたらお前も、そういう力を持っておるのかもしれないな。」
そうと付け足したが…今度はお返事がない。おややと背中を丸めて自分の胸元に凭れている坊やを覗き込むと、小さなお顔も身体からも、すっかりと力が萎えており。やっと落ち着いたその途端、唐突ながら意識が途切れて、寝入ってしまったらしかった。
“…よほどに気が張り詰めておったのか。”
いや、それにしては気配が無さすぎではなかったか。それほどまでの消耗状態にあったということなのならば、
“気丈な分だけ、どれほどの苦しさと長々戦っていたことやら…。”
それを思うと改めて、気が重くもなる葉柱で。親とはぐれたにしても…打ち捨てられたにしても、数カ月続いた冬場の話ではあるまい。こんな小さな子供が、厳寒と呼んでも差し障りがなかろうここいらの雪深い冬を独りで越せるはずはなく。
“全く何も食べないというのが、人の身ではどのくらい保つものか。”
水もないなら三日が限度というが、近くに沢の気配があるからそれはなかろう。となると、食料がなくとも…地震の瓦礫の下から半月や一カ月ぶりに生きて発見された人の話があったりする。大人で、しかもどこにも不自由のない健康状態からが始まりで、動かないでいるという条件下であれば、そのくらいは何とか粘れもするのだろうが、
“こんな非力な存在だしな。”
片腕でどころか、片手で抱え上げられそうな、それは小さくて軽い身だ。軽いのは痩せてしまってのものだとしても、その始まりだってそんなに違いはしなかろう。
“素性の不確かな子供が今時の人里にはそうそう居られまいしな。”
すぐ最前まで人出の稀な冬場だったのだから、それなりに保護してくれるような人に出会える確率も低い。空き家にもぐり込んで何とか寒さはしのげても、食べ物をくすねる場になろう人家や市場にも、品薄になるにつれ警戒も強くなり、そうそう出入りも出来なくなろうし。ならばと畑へ潜り込んでも、冬では枯れ野も同然だったのではなかろうか。そこいらの草や木の皮を食って何とか自力で頑張ったとしても、子供の力ではやはり限度があろうから。
“やはり春の声を聞いてから、か。”
親元にいたのか、それとも浮浪児仲間がいたか。そういうものから離れて、今のような独りになったのがそんな頃合い。そこから本当にぎりぎりまで頑張ってみたが、とうとう力尽きたということか。
“…人の世も色々と大変みたいだの。”
そもそも弱肉強食こそは自然の習い。弱い個体が次代の種を残しては困りものだから、脱落する者は涙をのんで見切られる。そんな生き物たちの中にあって、人というのはそもそも、非力な身なのが固まって、知恵を出し合い、助け合い、今の地位にいるのではなかったか。体力がなくなっても人生経験の蓄積、豊かな知恵があるからと重用され、その子らをも大事にされ、そうやって一族が栄えてゆき。年寄りは尊重しましょう、幼子は国の宝、みんなで守って育てましょうと、やたらいた数と長いスパンにて練り上げられし知恵の恩恵で“その他”を圧倒して、自然界をも制覇し尽くし、生物の長として現在君臨しているのではなかったか。だってことを都合で忘れ、利害や悪意なんてな動機から同族同士で殺し合い、こんな小さな存在を無情にも打ち捨てる矛盾を、時に露骨にご披露下さる、身勝手極まりない生き物でもあって。
「…ふにゃい。」
さっきまで涙に濡れていた小さな頬。乾いて擽ったいのか、こちらの胸元へと甘えるように擦りつけてくる様子が、何とも幼く稚いとけなくって。回復にばかり血の偏らないよう、ぐっすりと眠れますように。自分の生気を少しずつ肌越しに分けてやった葉柱だったりし。
“お前は結構見上げた気骨を持っているようだから。”
『おれ、誰かと喋ったの、凄げぇ久し、振り、だから…。』
この子が涙したのは、寂しかったからでもひもじさから死ぬのが怖かったからでもなく。もっと一杯、知らないを知りたかったから。何も知らない自分を、もっともっと満たしたい。この子はそれが出来なくなったのが悔しくて、ただそれだけが悲しくて。それでの涙を浮かべてた。死ぬということもまだよくは判らず、ただ。誰とも何とも接することが出来なくなったままだったのが、心底不安で、そして…心底悔しかったに違いなくって。
“だから。もっと頑張って生き抜いて、いつか大人たちを見返してやらねばな。”
ずっとの助けが出来ない相手への中途半端な情けは禁物。どこかで手を放さねばならないことが、却って残酷なことにも成りかねないと判ってる。だが、懸命に生きようとしている者へなら、前向きな強い子であるのなら、その未来へ賭けたっていいじゃないか、とも、葉柱は思った。
“それ故に、覚悟のない中途半端は出来んということでもあろうがな…。”
この身さえ恙つつがないなら、それでよかった、問題はなかった。そんなお気楽な身分の“次男坊”だった自分だったから。こんな小さな者への手を差し伸べるのへ、責任なんて重いものを意識したのも、それを重いと実感したのも初めてで。旅に出て来いと言われたその意味、今やっとちょっぴり判ったような気がしていた彼だったりもするのである。
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